2015年2月3日

「classic」(1)

写真はロータスジャパンのHP、「Exige S ROADSATER」より引用。
この4年間に愛おしむべきものは見出すことができなかった。

 センセイの事務所に入り、最初は単純で簡単な事案の処理から始め、1年間は書類にばかり向かっていた。年間の処理事案は僕一人で500件以上。まともな仕事ができるわけがなかった。
それでも迅速に、正確に事案を処理し続けた。日本を代表するセンセイの事務所に入り、修行するんだと、信じていた。


 2年目に入り、やがて書類のみでなく、直接クライアントに接しての事案処理をこなすようになった。他の事務所では少々てこずり、やっかいなことになる事案でも、センセイの事務所では半分以下の期間で、ほぼこちらの思惑通りの解決にこぎつけることができた。要はディベートなのだ。相手の論理の隙をつき、論理崩壊させる。その術に長けている方が勝つのだった。僕は、先輩につき、時としてセンセイのアドバイスを受けながら、あてがわれる事案に取り組み続けた。一度も負けることなく、1年で書類のみのケースも含め、300件以上の事案をこなした。その中には、先輩が2年かけても一歩も進まない事案も含まれていた。

 3年目になると、センセイから声がかかることが増えた。それと同時に周囲の妬みや憎しみの視線が僕に向けられていることに意識がいくことが増えた。データを消されたり、書類を汚されたりの嫌がらせも受けるようになった。センセイが僕に割り振る案件も、相当に厄介なものが混じるようになってきていた。その頃だ。センセイから白いV7クラシックの女性の話を聞いたのは。(「風のV7」参照) 事案に関わり影響を受ける人の数や、動く金額の量も大きくなっていった。3年目の後半には、たった一つの事案にセンセイと一緒にかかりきりになることを求められ、センセイの指示で僕は動いた。その事案が最終的に片付いたのは4年目の冬だったのだが、この半年間にその方向性と決定的なエビデンスはつかんでいた。

 4年目。先のセンセイと取り組んだ事案にからまって、僕は危険な目に遭うことになった。また、その事案でセンセイと僕が倒すことになる人々と僕は直接会う機会もあった。センセイは直接そうした人たちと会うことはない。僕は自分の仕事が、どういう人たちにどんな結果をもたらすのか、初めて実感することになった。それから、僕は3年目の仕事のクライアント、そして倒した相手がその後どうなっているかを調査した。遡って2年目の仕事、膨大な仕事量で思い出すことすらなかった仕事のリストの中から、いくつかを拾い上げ、追跡調査を当時すでに持っていた僕の部下にさせた。結果は僕の想像とはだいぶ違うものだった。

 4年目の終わり、僕はセンセイの事務所の前で一人の老いた女性に刺された。僕の知らない女性だった。刺し傷は大したことはなかったが、刺した女性の方が泣きわめき、泣き崩れ、逮捕されていった。僕も病院に運ばれ、傷自体は翌日退院できる程度のものだったが、センセイの命令で2週間入院することになった。僕の部下が僕を刺した老婆のことを調べて報告してくれた。2年目、先輩を助けて勝った事案の、負けた方の親族だった。しかし、僕の部下の様子がおかしい。僕が執拗に問い詰めると、部下は白状した。遠まわしにその老婆をけしかけたのは、センセイの腹心の部下の命令を受けた、僕の部下と同期の男だった。

 振り返ってみれば、この4年間に、愛おしむべきものは何もなかった。

 預金通帳に、自分の目を疑うほどの金額が、4年かけて溜まって行った、それくらいのことだった。

 僕の理想も、僕の夢も、僕の喜びも、幻に過ぎなかった。

 僕は退院すると、そのままセンセイの事務所へ行き、退職届を出した。


 マンションを引き払い、東京を離れた。
 親へは連絡したが、故郷へは帰らなかった。

 富士山の見える、田舎の町のアパートを借り、そこでひとり、しばらく仕事にもつかず、何をするでもなく、時を過ごすことにした。

 エキシージSロードスターも手離した。

 かわりに、僕は1台のバイクを買った。

 スズキ、GSR750。

 まだ26歳の僕と、GSRの暮らしが、始まったのだった。 (「classic」つづく)


*この物語はフィクションです。あらゆる個人、団体とは一切関係ありません。

0 件のコメント:

コメントを投稿