2013年11月9日

小春日(4) 追分

道道477号線を南下すると、道は夕張川に沿って遡り、川端から滝ノ下に向かう途中で国道274号線に合流する。
左に曲がれば夕張、さらに進むと日高、峠を越えれば十勝だ。
右に返せば千歳、札幌方向へ戻る。
ここを右折。
川端で北へ向かう国道274と再び別れて道道482号線へ。
JR石勝線、東追分駅のあたりから再び枝道で南下する。
すると、しばらくしないうちに牧場が現れ、そこにきれいな樹がすらりと立っている。


時刻はお昼時。
南に向かう道は太陽を顔に受け、樹は逆光になる。
競走馬を育てている社台ファームグループの牧場だ。

バイクを停め、少し休憩させてもらう。
近くには、人も、馬も見えない。



南側から今来た方向を眺める。
広い。
空も、地面も、広く感じる。
きれいな球形に近く枝を広げるこの樹は、楡(ニレ)の仲間か。たぶんハルニレだと思う。
葉はもうすっかり落としている。
たぶん、まだまだ若い樹だ。


今度は東側から撮った。
若いと言っても、100年前後だろうか。もしかしたらもう少し若いのかもしれない。
冬は吹雪の吹きすさぶ中、主幹を折られることもなく、しなやかに、大きく育ってきたようだ。


足元はきちんと手入れされて下草は短く刈られている。
別に囲いはないのだが、舗装路から踏み込むのは遠慮した。
柵の外側ではあるし、怒られるものでもないかもしれないが、やはり丁寧に手入れされた人様の土地、今は入り込むのは違う気がした。

 

そのかわり、影法師と、ゆきかぜと、記念写真を撮っておこう。
つい数年前まで、写真はフィルムで、撮った写真はプリントして、アルバムに貼り、そっと本棚にしまって時折取り出して見る、大切な記録だった。
今や、写真はデジタルで、web上に公表し、不特定多数のみんなに見せるものになった。
僕のバイクの写真も、こうしてブログに載せることを意識しないではシャッターを切れなくなっている。
でも、写真の「絵」を作るために、畑に踏み込んだり、立ち入り禁止の柵を乗り越えたりを平気でする人たちも確かにいる。
そしてそうして撮った写真をブログに挙げる。
無邪気といって許されるのは小学校の3年生くらいまでだろう。
そういう僕とて、写真を取るために崖をよじ登ることもあるし、藪の中に入り込むこともある。自分で知らずに、ひどいことをしているかもしれないのだ。だから人のことなど言えないのだが、すくなくとも、どんなに好きでも、バイクに乗るのも、バイクの写真を撮るのも、所詮は「遊び」だということは大前提としてわきまえておきたい。
たかが遊びで、その土地に生活と命を懸けている人たちの行為を、土足で踏みにじるような行為はしたくない。
そんな恥知らずをライダーとは、僕は呼ばない。
しかしまた、バイクで遊ぶということ自体、厳格な環境主義者に言わせれば、遊びでCO2をまき散らし、スピードによって自分と他人の命を危険にさらす不届きものということになるのだろう。それが時速30kmであっても。
僕は、絶対的に正しくはないのだ。それは絶対だ。
しかし、僕はバイクに乗りたいし、乗り続けたい。だから、せめてバイクが世間から眉をひそめられるようなことがないように、できるだけあからさまな迷惑はかけたくない。
難しいものだ。
昔も今も、バイクに乗ることそのものが、実は難しい。
ここ数年の社会の「寛容のなさ」、正義は我にありとばかりに手軽に攻められそうな相手を徹底的にけなし、こきおろす、ネット言説の流行には、いまこの僕の原稿もネット言説であると知りながらも、本当に嫌気がさす。だから僕はもう、あまりネット言説は見ない。

「難しいことなんか考えないで走ればいいんだよ」という人もいる。でも、その発言はたいてい嘘だ。
そういうことを嘯く奴は、口ほどに走っていない。
僕は「本当に走っている奴」を何人か知っているが、彼らは皆、謙虚だし、物事を単純化したりしない。「ただ走る」ということの「難しさ」を知っている。

ゆきかぜの足元、陽だまりであたためられたアスファルトに腰を下ろして、足を投げ出して、しばらく休憩していた。
風はなく、本当に穏やかな小春日和だ。ときおり、思い出したように風が渡ると、近くや遠くの山から枯れて乾燥しだした葉をこすり合わせてながら枝を揺らす秋の名残の音が、波のように聞こえてきた。

しばらくして、僕は再びゆきかぜに跨った。

牧場の中の道を抜け、丘に出たら、その一番高い所まで、道を何回か曲がってやってきた。
やっぱり最後はダートになってしまうのだが、ゆきかぜ君、そろそろこのオーナーの癖にも慣れてね。イタリア生まれのレディ、こんなとこいっぱい走らされるなんて、想定してなかったかもしれないけれど、無理しないで走るから。




小春日とはいえ、丘から眺める風景は、もう雪の降るのを待つだけになり、冬支度を整えた大地に見えた。
豊かな大地。人と、植物や動物や、菌類や、岩石や、さまざまなものが結び合い、関わり合って一つの風景になる。
バイクだから今日ここまで来れた。
僕の脚力では自転車でここまで日帰りは無理だ。
自動車に乗っていたら、なんでもないこの場所に、なんの用事も当てもなく、来ることを選択できなかっただろう。車は僕にとっては実用の道具だから。インプレッサは走らせる喜びが大きな車だと思うけど、風景を呼吸するのは、バイクでないとできない。


広い空。南の方から雲が広がり始め、気温は下がり始めている。
さあ、帰ろう。

ちょっとだけ寄り道しながら、我が家へ向かっていこう。(つづく)

4 件のコメント:

  1. 樹生さん おはようございます。
    樹を巡る旅がやっぱり、いちばん時に息を飲むほど
    空気感があって素敵です。

    樹生さんのお写真は、樹を見あげて上へ丸く、見渡して遠くへ丸く 
    丸く伸びていることに気がつきました。眼が休まるのびやかな視点。深呼吸の写真。

    今朝はほんとに冷たい寒い雨の日曜日になりました。
    来週は一度降雪になりそうです。
    ワタシもバイク屋さんまでのラストランを残しています。
    もういちどちょっと小春日和になればよいですね。

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    1. kaoriさん、こんにちは。
      本州には、例えば田舎の集落ごとに古木、巨木があったりするのですが、北海道は昔からの神社もなく、「開拓」時に大量に(殆ど根こそぎ)伐採されてしまいましたので、いわゆる銘木は土地の広大さに比べるととても少ないです。でも、名前も付けられていない樹が、伐り残されてひょっと立っていたり、開拓期に植えられた樹が百数十年で大きくなっていたりしていて、それはそれで、出会うとやはり、おおっと引きつけられるものがあります。
      どうして樹が好きになったのか、自分でもわかりませんが、高校時代に既に『巨樹・巨木』という新書を買っていたので、どうも昔かららしいです。自分のことなのに、はっきりしません…。
      でも、おっしゃるように、大きな樹の下では、なぜか深呼吸したくなったり、少しの安心感を感じたりします。
      やっぱり好きなんだなあと思います。

      この週末も仕事でした。もう一回、晴れてほしいですね。

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  2. 相手をけなすことで、相対的に優勢・・・と言うより、自己満足的な優越感に浸る。
    島国根性の、ちっぽけな感情ですよね。

    もっと自我を持ち、幸せな人生を築く。
    他者の幸せを願い、その幸せを心から喜ぶ。

    人間として当たり前の感覚や感情を、忘れたくないものです。

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    1. tkjさん、こんにちは。
      誰の心にも、ふてくされた感情や、どす黒い悪意は兆すものだと思うのですが、それをそのまま増幅してしまう機会として、ネットの場が機能してしまっていることもあると思います。もちろん、インターネットはまさにネット(網)的メディアとしてこの20年で世界を変えましたし、有効性も大いにあると思います。ネットによって広がっていく善意の輪も、たくさんありますよね。
      しかし、匿名に隠れて、短絡的に「悪」らしきものをぶっ叩くというのは、人間としての尊厳を失う、非常に貧しい行為だと思います。
      のび太の結婚前夜でもしずかちゃんのお父さんが言ってましたね。「のび太くんという男は、 他人の不幸を自分の不幸のように心から嘆き悲しみ、 他人の幸福を自分の幸福のように心から喜ぶことの青年であり、
      人間にとって一番大切な物事を、きちんと兼ね備えている人だ。うんと幸せになりなさい」と。
      自分の感情が本当の怒りなのか、何かの不安や欲求不満を、あてがわれた対象に、煽られるままにぶつけているだけなのか、その判断はとても難しいものですが、していかなければならないな…と思います。
      一人のおっちゃんとしても、一人のバイク乗りとしても。

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